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石口弁護士 憲法講演記録

主題:「今こそ憲法!」
講師:石口俊一弁護士(広島弁護士九条の会)
日時:2006年4月23日(日)13:30〜16:00
場所:廿日市商工会館
主宰:「九条の会・はつかいち」

石口俊一弁護士 講演部分のみ:

みなさん、こんにちは。今日は要約筆記の方と手話通訳の人がおられるので、いつものスピードの3分の1ぐらいで話します。大学でも授業しているので、2時間ぐらいで詰め込むときは今日の2倍か3倍ぐらいで話すのですが、筆記の方が大変なのでゆっくり話します。途中で少し休憩も入れます。お手元にレジュメがありますので、筆記の方には全部を書かずに見るように指示して頂くなど調整しながらいきます。
今日は廿日市にお招き頂きありがとうございます。私も、小森さんと森滝さんが講演された結成総会の時には一番後ろの席で参加させて頂きました。市長さんも議長さんも来られるという、たぶん全国では画期的な結成総会で、すごいなあという強い印象を持ちました。今日は憲法の話をしますが、最近も市内で2ヶ所、今日は廿日市で、来月になると呉の焼山でも結成するので来てくれと言われています。神石郡にも来てくれという電話があり、だんだん遠くなるから大変だなあと思っていますが、それだけ県内各地に広がっていることは心強く思っています。では、レジュメの始めから話に入ります。

映画「白バラ」について

私の話は脱線が多く、筆記の方には気の毒なので最小限にしますが、最初に映画のことを書きました。サロンシネマという広島の映画館でやっていますので、ご覧になっている方も居られるかもしれませんが、私は最初の頃に見に行きました。非常に強い衝撃を受けました。ナチスが政権を取ったドイツの時代の映画ですから、日本で言えば戦前の時代ですけれども、非常に、良心、信念と本当の意味での愛国心というか、誤った国の行き方についてきちんと批判をする若い学生を題材にした映画で、ちっとも古い印象を受けませんでした。レジメの朝日新聞の投書というのは、数日前に感想が載ったのでご覧になった方もおられると思いますが、書きたくなるような映画だったのです。その下に、「心に着せた無関心という外套を脱ぎたまえ、心を閉ざすな」とあるのは、白バラというこの学生を中心にした運動のビラのひとつに書かれていたセリフだそうです。当時、ナチスがどうやらひどい集団虐殺をしていること、第一次戦後の酷い状況から国を一見救っているように見えるけれども、どうもおかしいと皆思いつつ、実は声をなかなかあげられなかった。その時に無関心でいることはもっと大変なことになるのではないかという訴えをされたのはこの若い人たちなんですね。で、この言葉はこれからお話しするのですが、おそらく私たちにも共通の問題ではないかと思っていいます。
九条の会はさまざまな考え方があると、先ほど多羅さんがおっしゃいました。そのとおりです。小森陽一さんが北海道の大学時代に、しょっちゅう意見がぶつかっていた相手に、自民党の箕輪議員がおられますが、今はその方と、イラクに自衛隊が海を越えて行く事は憲法に反するという所で一緒にやっておられるということでした。本当に私たちはどうこの国で生きていけばいいのかについては、きっと大きなところで共通できるところがあるのだと、そのお話を聞いて思います。

どちらを選ぶかという問い

今日は主として自民党の新憲法草案について、お手元に資料により話をしますが、何となく自民党批判が続くかのように聞こえるかも知れません。しかし、おそらく、この自民党が作った新憲法草案と、対比して載せています今私たちが暮らしている憲法と、どっちを選びますかと、皆さんに問いかける時期が遅からず来るのではないかと思っているのです。そして、この草案がいいものだとか、よく考えたものだという意見はですね、私が言わなくてもたくさんテレビやラジオで流れます。だけれども、本当に必要なのは、批判的に冷静に、小泉さんの口癖ではありませんが、きちっと何が書かれているか、どういう国を目指しているのかを、やっぱり批判的に見ること、無関心じゃない立場はどうしても必要だと思うのです。
今テレビで流れる情報は圧倒的に多く、私たちがそれに対抗するためには、今日のように学ぶ会を開かないと難しいのだと思いますし、そこで多少批判的過ぎても、批判し過ぎることはないと思っていますので、そういう話だということでご理解下さい。

立川テント村反戦ビラ事件

また元にもどりレジメの2枚目に、立川の反戦ビラ事件を書きました。そこに、いつ事件が起きて、1回目が無罪、2回目は逆転で有罪になったかを書いています。これは、県営住宅か市営住宅か、少し広い複数団地をイメージしてもらえばわかりますが、そういう自衛官の官舎ですけども、敷地はいろんな人が通ります。そういう中で、敷地の中に入って、「イラクに行った自衛官の家族の皆さんはどういう思いですか。海外に行くという約束で自衛隊にはいったのですか」という、海を越えて行くことについての意見を表明したビラを入れたわけです。私もマンションに住んでいますから、ビラは勝手に入れないで下さいというステッカーを貼っていますけど、ピザの宅配から、あまり子どもには見せたくないピンクちらしなどたくさん入りますが、不快感があったり、気分はよくないですけども、それをすべて警察の力で、刑罰で封じ込めるかどうかということは躊躇します。それとは違って、いろんな考えのちらしも入りますが、それはそれで、私たちがこう思うというふうに違う方法で対処すればいいと思っているわけですね。
それが残念ながら、配った人たちは逮捕されて75日間も外に出られませんでした。配ったビラはちゃんと警察が押収しているし、誰が配ったかもわかっている、どこに逃げるわけでもない。証拠もちゃんと残っている。何故75日も、ずうっといなきゃならないのかという素朴な疑問や、書いてあるビラが自衛官官舎にとっては極めて不快だから逮捕したとしか思えない。つまり、思っていることや表明したことそのものに対して、国が刑罰で罰する、という仕組みの中にこの問題を入れているというのは、先ほど言った白バラ事件の若い学生たちが、シベリアというかスターリングラードですけど、ロシアの東部戦線で非常に悲惨な戦いをしているが、それは本当に国民のために私たちの兵隊がやっているのか、もうやめたらどうかというビラをまいたら、たった5日で死刑の宣告を受けて、処刑されてしまったという状況と、刑罰の大きさは違いますけど、まったく同じ仕組みを持っているのかなと感じたわけです。
憲法は、お手元の資料のように、思想信条の自由があるときちんと認めています。19条を見て下さい、「思想及び良心の自由は侵してはならない」。21条は、表現の自由。これが、私たちが暮らしている社会の基本です。言論には言論をということが、私たちのルールです。それが残念ながら、司法の場でも、自衛官官舎の住んでいる人はビラを見ていろいろ考えるきっかけになっていいと思っているのに、管理をしている人は強い不快感を持っているので、刑罰を課すことによってその不快感を保護したいということを裁判所が認めてしまっています。

民主主義と多数決

私の仕事場は、弁護士なので裁判所ですけども、司法の役割は何か? 民主主義は大事な原理ですけども、どうしても最後は、多数決で一つの結論が出ます。もちろん議論の中で、少数の考え方や少数に立場にある人について努力しつつ法律は作りますけど、最後は手を上げて多数決で採決されてきます。従って、その時々の少数者の権利がないがしろにされたり、大事にされない法律が作られたり、そういう結果が生まれる危険性を実は民主主義の仕組みの中にはらんでいます。その時に、憲法に照らしてみて、その法律のまま適用してしまうと少数の人たちの権利や自由を奪うことになるということで裁判所がだめだという、チェックをする。そこに裁判所の大きな意味があると私は思っていますが、残念ながらその役割を果たさない一つの例がここにあります。
こういう流れによって、今日のような集会で、政権与党のもとで大多数で決まったことについて大きな声で批判することはいかがなものか、というふうになってしまう時代をやはり恐れるわけです。そのことは避けたいと思っていて、最初にその話をさせて頂きました。

憲法は国の骨組み

第2に、「憲法とは」です。廿日市には今日で2度目で、集会所で話しに来たこともあるし、皆さん方の中には、語りべ講座で学習された方もいるので少し省きますが、憲法は本当に私たちの生活の基本です。昨日中国新聞に投稿する文章の冒頭にも書いたのですが、分厚い六法全書の第1番目に出てくる法律は憲法です。それは私たちの骨組みと同じように、私たちが生活しているこの国の骨組みを決める基本的な法律だからですね。
ここに書いたように、憲法は立憲主義といって、国が、つまり大きな権力を持っている組織が、私たち個々人の権利を侵害しないように、さまざまなチェックアンドバランスの仕組みをつくり、且つこういう権利があるとはっきり出しているわけですね。それを犯してはならないという命令を国にしているのが憲法なわけです。ところが憲法はときどき、いろんな人の都合で変えられます。ここに『改憲論を診る』という本があります。著者は、水島さんという以前広島大学で今は早稲田に行かれた、私の尊敬している憲法学者ですが、その人が、いろいろ憲法が変えられた事例の一つを紹介しています。
フジモリさんはご存知ですよね。このあいだ日本をちょっと出てペルーの方に行って拘束された、南米の大統領の方ですが、あの方が大統領になる時に、2回の任期しか大統領はできませんという規定の憲法があって大統領になったんですね。ところが、なるともっとやりたいもんだから、いままでの任期は数えないという実はそういう改正をして、続けてやろうとしたことがあって、これが大問題になったことがあったんですね。つまり力を持っている人は、上の方から憲法を変えようというときには、どこかで何かのいろんな思いや狙いがあるという一つの例です。なぜかというと、やっぱり自分を縛るというか、これ以上やってはいけないというのは嫌なんでしょうね。うざったいんでしょうね。それをとっぱらいたいと思うときに、変えたいという思いが強く出てくるわけです。

日本弁護士連合会の決議

わたしたち弁護士は、日弁連、弁護士の連合体に全員が強制加入しています。医師会とは違って、この会に入らないと弁護士という仕事ができません。したがって、まさにあらゆる考え方の人が弁護士になっています。私と違って新憲法草案はいいという講演をしている弁護士の人も入ってるわけですね。その人たちも含めて、全会一致ではありませんが、圧倒的な多数で、憲法は、国の権力が自由自在に使われて私たちの権利を害さないようにするものだから、そういう骨組みを変えようとすることには賛成できませんという決議を上げました。それが、昨年11月のことです。これは強制加入団体の弁護士集団としては極めて画期的なことです。その時に、ベアテさんという憲法24条を作ることに尽力された方をモデルにした映画を見たり、横浜の若手の弁護士がロックバンドを組んでいて、今日の橋本さんではありませんが、憲法についての自分達の歌をですね、横浜の港が見える公園で日曜日に歌っているんだそうですが、話をするよりもその方がみんなに伝わるのかなと思ったりしましたが、そういうこともみんなでやってきました。

新聞報道による憲法改正論議の先行

しかし、残念ながら、憲法を変えるという声がどんどんどんどん大きくなっています。土日や朝のワイドショーでは、憲法を変えるか変えないかという分け方でいうと、もう変えたほうがいいんじゃないかという人たちのとても大きな声がたくさんの時間を使って流されています。そういうメディアから流されている以外に、そこに書いたように読売新聞が94年から何年かごとおきに全面的な憲法改正案を出しました。それは、お手元にある新憲法草案とほぼ同じものです。つまり自由民主党が新憲法草案を結党50周年記念で去年11月出しましたけど、実はその10年ぐらい前からほぼ同じ内容でこういう風に憲法を変えたらどうかという案がずうっと新聞に載っていたわけです。読売新聞に載ったときには、両開き三面ぐらいつまり123456面ぐらいを使って全文を載せて解説もちゃんとつけていますから、情報の量としては非常に大きいし、いつも言いますけど新聞広告代に置き換えると何千万円位かなというほど非常にお金を使った宣伝をしています。

どっちを選ぶかという問い

それは9条だけをどちらを選びますかという提案ではなくて、憲法をまるごと違うものとして、同じ条文もいくつかありますけど、Aコースを選びますか、Bコースを選びますかという提案なんですね。
私の印象では、9条だけについて、9条の1項は残すけれど9条2項を削除して9条の2を作りますから、9条1項と9条の2のセットとそれから今の9条の1項2項のセットとでは、「みなさんどっちを選びますか、さあ投票してください」と言われた時には、おそらく基本的には変えないほうがいいという意見が相当数出てくる可能性がありますよね。ところが、全部の憲法を、いろいろな条文があるものを丸ごとどっちを選びますかというと、9条だけではない問題や内容が入ってきますから、さまざまに関心の度合いは散らばってくるわけで、どっちを選んでいいか、なかなか選びにくいわけです。

日常、私たちは憲法を変えたいと思っているか

考えてほしいのは、私たちはなにも、どっちかを選ぶ場所に自ら立ちたいと思っているわけではないわけです。例えば、テレビで応募をして、どっちの料理ショーに出て、どっちの料理を食べたいかというのであれば、その人が望んでどっちかを選ぶ場に行くわけですからそれは構わないけど、おそらく今日の皆さんは、毎日の生活や職場や、いろんなところで、憲法ではこんな権利があるとか、健康で文化的な最低限度の生活を保障するといいながら、何故そうなっていないんだという不満は強く持っていて、なんでこんなに仕事の状況が厳しくなるのかとか、自己負担が増えたり、いままでリハビリも受けていたのに受けられなくなるだとかですね、そういう不満や自分で納得いかないこと、つまり憲法にせっかく目標とすると書いてあることからどんどんどんどん離れていくことに対して強い不満や、場合によっては何とかして欲しいという思いはあってもですね、憲法を変えてそういうことを実現しようと思うような機会は、おそらく多くないと思うわけです。つまり皆さん自身から、今の憲法のここをどうしても変えないと、私の生活や私たちの生活や地域にとって困ることというのはなかなか見当たらないわけです。 しかし、大きな新聞も含めて、憲法は変えるべきだ、憲法は変えよう、もう時代遅れになった、という声のほうが、マスコミだけ見ると非常に大きくなっている。生活している場所と流されているマスコミの情報とが、全く逆転したような世界が今ずっと起きているわけです。

大新聞と経済団体

もう一つは、経済同友会、日本経団連などの経済団体があります。経団連は、ライブドアを早くから会員にしてからちょっとミソつけましたけど、日本の冠たる大企業が入ってます日本の経済的な方針に影響を与える団体ですけど、さすがに読売新聞ほど声をあげて来ませんでしたが、この最近はやっぱり9条は変えるべきで、9条の2項を変えて、自衛隊のもっと自由な活動は認めるべきだという意見書を出すようになりました。つまり主要な大きな政党と、大きなマスコミと、それから大きな企業を中心とした経済団体3つが、ほぼ揃い踏みの状態になったわけです。私は読売新聞を取っていません。大学の時代に読売新聞の配達はバイトでしましたけれど、ずっと別の新聞をとっています。広島ではカープが強いので中国新聞が多くても、巨人軍を応援する読売新聞の読者はあまり多くありませんが、関東を中心にして、新聞の中では公称1千万部という最大の部数を誇っていますから、毎日それを読んでいる1千万の人たちにとっては非常に影響力の大きい新聞です。だから、そのマスコミを中心にして、産経新聞と日本経済新聞を足した日本の人たちは、もう憲法は変えるべきだと主張している新聞を実は毎日読んでいるわけですね。そういう状況の中で、新憲法草案というのが出て来て、さあみなさん、どっちを選びますかという、選択の場に連れて行かれるような状況が最近生まれているのです。

自民党憲法草案

レジメの第4とお手元の新憲法草案と現行憲法の資料を開いてください。最初の前文から、どちらの憲法も99条までで終わりになりますが、草案は数を揃えるために新たに増やしたところは何々の1、何々の2、というふうに増やして条文がお互いに向き合う関係になっています。

憲法前文

草案の前文はとっても短くなっています。憲法の前文で下線を引いているのは、これは全部なくなるという意味です。つまり全くここで内容が入れ替わりになります。従って、先ほどの多羅さんの世代を中心に、戦争の惨禍を体験された方々の強い思いである憲法の前文の中の「政府の行為によって、戦争の惨禍が再び起こることにないように決意した」という下りもなくなります。反省をやめたわけではないと言いつつ、「反省する」という言葉は除くことになったわけですね。 それから、後ろの「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」、つまり「私たちは平和のなかで生きる権利がある」と書いたこと、恐怖と欠乏というのは戦争の原因となる貧困だとか人権侵害だとか民族同士の差別的な行為だとか、そのことがもともと戦争の原因なのでこれを除こうという決意についても、そこを削るという体裁になっています。
その代わりに入っているのは、レジメの第5のように、「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概を持って自らを支え守る責務」、「責任」と言いかえてもいいのでしょうか、があると書いています。これは今、教育基本法の改正で「愛国心」という言葉を入れたらどうかという議論がありますが、それを少し入れ替えるとこの言葉になるわけです。先ほどの「白バラ」の話しではありませんが、一体愛国心というのはどんなものなのだろうか。私たちの国が、もし政策を誤っているなら「おかしい」ということをきちっと制限・制約されることなく主張できること。そういう、苦口こそが本当の愛情だという言葉がありますけれど、ヨイショすることだけが愛国心ではないということは、みなさんもお分かりのことだと思います。そういう愛情は、当然のことながら強制されて生まれるものではないですよね。

強制されない世界

私たちはまさに現代国家の主人公である国民のひとりひとりですけど、誰かに強制されて何かの思いや愛情や考えを持つということのない世界に住んでいるはずなんです。中国の三国志だとか、皇帝がいろいろ活躍する史記の世界とか、漫画で言えば亡くなった横山光輝さんが書いてるような中国の歴史の世界の皇帝が言っていることでも、「強制しても民は従わない、民が従うような政治をしよう」と彼らだってあの時代に言っていたわけですよね。つまり我に従えということは、恐怖と強制によって実現できるけど、絶対にこれを支持するということは強制では生まれない訳です。そのことは中国何千年の歴史の中では施政者として百も承知のことだったわけですが、それと全く正反対のような言葉が、このように前文に入ってきてしまうのは、一体なぜなんだろうというのが最初の疑問です。

「自由、公正、活力ある社会」の本当の意味

それと「自由で公正で活力ある社会の発展」という言葉が、新憲法草案の中に出てきます。これもとっても耳ざわりのいい言葉ですが、後ろの要綱第一次素案という参考資料の中に「国の目標」と書いていますね。そこに「国の目標」とあって、「内にあっては自由で活力に満ちた経済社会を築くとともに、福祉の増進に勤める」といいうさっきの前文ととっても似た言葉があると思います。

自由の意味

この言葉は、ずっとこの10年ぐらい、経団連を中心に使われている言葉です。その意味は、レジメの中にイコールで書きましたけど、「自由で」という言葉は経済社会では「市場原理」です。つまり事前にいろいろ規制せずにいろんな商品を出してきて、悪い商品だったら買わなくなるからいい商品しか残りません。事前に粗悪な商品や健康を害する商品が出ることは禁止するということよりは、そこはどんどん自由に任せたらいい、というやり方をするのが市場原理というやり方ですね。そうすると、お金だけ、収益だけを考えるとどんどんどんどん健康だとか安全だとかに配慮はしない方が安く仕入れて安く売れるもんですから、思ったのとは違った結果が市場原理の中では生まれますが、それが「自由」という意味です。

公正の意味

それから、「公正」というのは、いろんな規制はとっぱらってみんな「用意、ドン」で並んで走る競争原理のことを「公正」と言って使っています。たしか小森陽一さんの講演の中で、政治家になっていくのに2世3世の人が政治家になる時と、初めて政治家を目指す人では、100メートル競争でもう50メートル前ぐらいから走っているのと同じで、それを公平だという言い方は実態を無視した言い方だと、そんな話もあった記憶があります。つまり自由に競争してもいいと言っても、いろんな状況みんなちがう訳ですよね。本当の意味での「用意、ドン」でものごとやるということは、世の中にはあり得ない訳です。しかし、そういう競争原理を認めよ、というのが「公正な」という意味なのです。

活力ある社会

そして「活力ある社会」ですが、草案の前文では「公正で活力ある社会」と書いてあるから、なんか元気が出る社会のようなイメージがあるのですが、さっきの資料見ていただいたらわかるように、もともとはここに「経済」という言葉があるんです。つまり、「市場原理で競争原理に基づく経済成長する社会」を私たちは目指そうという基本的な国の目標があるわけですね。これを今のマスコミの言葉で言い換えると、「新自由主義経済社会」というものです。もっと厳しい言い替えをすると、弱肉強食の自由競争社会、金のある者は勝ち、金のない者は負ける、金がある人はどんどん大学に行く為の受験戦争や教育費がかかるところでもどんどん差がつくだとかですね、そういう状況が、もともと公平な出発ではありませんので、生まれてくる。そういう社会でもいいではないか、という一つの経済的な思想がきちっとここに入っているんです。この草案の前文のもとで憲法が決まってくるようになってくるわけです。

パッケージとして丸ごと変える理由

そこで憲法全体の仕組みに戻って話をしますが、憲法を丸ごと変えることになりました、というのは先ほど言ったとおりです。つまり、一つ一つの条文の選択ではなくって、パッケージとしてどっちかを選ぶかという選択に流されていく危険性を持った提案のされ方です。それと前文そのものが、平和や今までの戦争の反省というトーンがどんどん薄まっています。それから3番目、主としてお話しする「9条の2」の問題です。それと、憲法の基本である基本的人権についても、まさに「白バラ」の思想信条の自由にも大きく変化が生まれます。それと、三権分立と言って、三角形で力関係をうまくバランスとっていた構造が、行政権が非常に強くなって少しバランスが崩れます。また、廿日市だとか広島だとか地方自治の世界でも大きな変化が生まれます。それと憲法の改正がとてもやりやすくなります。これらは、バラバラのように見えますけど、思いつきでいろんなことがバラバラに変わろうとしているわけではないのです。9条の1項は残るけど9条の2項が変わってしまうと、その人がグルッとターンするとですね、スカートが一緒にぐる−っと回るように憲法全体が変わらないと、実は9条の2だけを変えても、9条の2を変えたことが機能しない、実現できないという状況が生まれるわけです。

慰霊の施設を作る意味

さっきの国を愛するか、国の政策にあまり批判的なことをしないようにと言う意味で愛国心をとらえると、例えば自衛隊が何らかの形で新たに外地に出て行きますよね。そのことに対して先ほどのビラではありませんが、本当にそういうところに行ってその国の人のためになるのか、なんの為に行ったのかという世論がずーっともし国内でどんどんどんどん湧き立てば、行ってる自衛隊の人はやれないですよね。だってあの人たちだってそれはそれで就職の一つとして自衛隊に行ったり、家族を持ったり、日本の中で生活をしている国民の一人であるわけですが、国民が自分が行っていることを支持してくれてないと思う時に、元気がでませんよね。どうやっても、国がいくら行けという命令を出しても、要は銃後の守りがちゃんとしとらんと(笑い)、軍隊って安心して出ていけないわけです。 軍隊で若い世代が、戦争で例えば外地に行って亡くなったら、上の世代の人は、普通は先に亡くなりますから、子どもが亡くなったら20代の子どもの慰霊を背負うものが誰もいないまま、結婚して跡継がいないまま、若い世代の兵隊さんは亡くなっていきますよね。つまり、慰霊をする人がいない状況を若い世代にどんどん作るから、それは慰霊をする別の場所を作らないと安心して若い人が行けないというか、親が出せないという、そういう状況はあるわけです。そのために、ある神社をそういう仕組みとして国が作ったわけですよね。そういうふうに、ただ軍隊を作って、装備をすごく完全にして、戦争に負けないような仕組みで出て行きさえすればなんとかなるというほどそう簡単ではないんですね。ちょっと早いですか、一息つきます。授業でもどんどん早口になって怒られるのです。

愛国者法

今アメリカで、9・11の後、イラクに行くことも踏まえてですが、「愛国者法」、パトリオット法という特別の法律ができました。これも小森陽一さんが指摘する名前の言い換えの典型ですけれども、言葉のごまかしというか、愛国者の法律というといい法律ですよね。だけどその法律のもとで、たくさん、国の政策や、例えばイスラム系だというだけで逮捕状もなしに拘束をされて、どこに拘束されているのかもはっきりしないような状況が、あのアメリカで生まれています。そういう人たちの非常に強い弁護をした弁護士が、愛国者法違反で逮捕される、という状況も生まれています。
この3月にひさびさアメリカに行ったのですが、9・11以降にアメリカに行かれた方は経験があるでしょうが、それまでにはなかった指紋をまずとられます、入国する時に。それとはまた別に虹彩の撮影というか、指紋とは別のもう一つ私を識別するために目の奥の撮影をします。
民主主義国家と言われたアメリカが、非常にこう、監視社会の典型のようになっているという実感をしましたけれども、そういう非常に中で恐れているような、ほんとに民主主義を豊かにしようというよりは、見えないものに対する恐怖心でどんどんどんどん内へ内へ規制を強くするような方向に行っています。つまり、今アメリカはまさに戦争をしている国ですけれども、戦争をしている国はどういう体制を持つかということの一つの実例があるような印象を受けました。

価値観のせめぎあい

憲法9条を変えて、「軍隊を持って軍隊の機能が自由になる」ようにすると、それがうまく機能するようにすべての仕組みを全部それに合わせて変えないと実は意味がないので、9条だけの話をするわけにいかないことになるわけですね。逆に言うと、9条だけではなくって全体を変えないと意味がないから、全体を変える案を出さざるを得ないというのがいま出て来ている状況です。9条は非常にぶつかりあいの接点ですけれども、9条を支えるものが全部憲法の中に書いてあるものですから、それをどっちの価値観でとらえるかというせめぎあいにすべての問題がぶつかってくるわけですね。一種の総当たり戦みたいなものです。そこで9条に話を入ります。9条の話をしたらちょっと休憩します。
9条を見てください。これまでも廿日市では語りべ講座で、何故9条が出来たかを、二見さんが学習会を開いて話されたようですので余り繰り返しません。

パリ不戦条約

9条は、本当にいろんな思惑、思い、願いを含んで出来た条文です。しかし、9条の命は、1項ではなく2項にあるとやっぱり言われています。レジメに「9条の1項とパリ不戦条約」と書きました。これも、戦争をやめる思想、戦争を拒否する考え方の歴史を学ぶと必ず出てくるのが、フランスのパリで結ばれた不戦条約に行き着きます。1928年の条約です。ヨーロッパ全土が焦土と化した第一次世界大戦の後に、もうこんな戦争はやめようということで、パリ不戦条約ができたわけですね。それまでの戦争は、ナポレオン時代にしても、軍人は軍人だけで、例えば「戦争と平和」の映画を見ればわかるように、草原で赤色のフランス兵と青色のロシア軍が向かい合って、太鼓を叩いて順番に行ってどんどんと大砲や鉄砲を撃ち合って、一割ぐらいが怪我するとザーッと引いてやると、2割ぐらいまでケガをして動けなくなるともう戦闘はできないので引いてしまう。そこでケガをしたり死んだのは、職業軍人だけというのが戦争だったわけです。 ところが第一次世界大戦では、そういう職業軍人だけでは足りないからみんな徴兵で一般の人たちが鉄砲を持つことになり、戦場になったところはもっと多くの市民の人たちが死ぬと言う、それまでとは違う戦争がそこで生まれたわけです。これはさすがにやめようということを、やっぱり当時の人だって思ったわけですね。それが不戦条約です。不戦条約の条文と同じ条文が9条1項です。だから、9条1項は1945年に生まれたのではなくて、1928年には世界的に登場して日本もそれを批准していた。そういう条文です。

9条2項は腹をくくって作った

ところが、また戦争が起きてしまった。戦争末期の大空襲や2発の原爆投下もありましたけど、日本が海外に出て行き、昔の教科書だとここまで赤で塗りなさいと習ったりしたんでしょうけど、どこまで兵隊さんが行ったかとどんどん色を塗っていく世界というのが広がっていくわけです。ビルマだとかインドネシアだとかはるか遠くまでオーストラリアの近くまで全部占領したというふうにいくけれど、そこにはそこで住んで生活する人たちがいたけど、出兵した軍隊の食料は現地調達主義ですから、そのために次の籾というか稲作のために持っていたそういう種米だとかそんなものまで全部現地調達で盗っていくために東南アジアではたくさんの人が餓死していったりしたのです。
そういう問題も含め、日本の国以外のところで想像もつかないような被害を生んだのがこの前の戦争だったわけですね。それで9条2項で、軍隊という、それ自体は暴力的な組織、戦争の根本治療は貧困や差別や人権侵害を無くすことにあるのであって、軍隊で平和を作れるわけではないという思想から、9条2項を腹をくくって実は作ったわけです、私たちの先輩が。これが日本国憲法9条の大きな意味だと私たちは習ってきたわけだし、そういう意味を持っているわけです。

2項が持つ縛りの大きな意味

しかし、一方で自衛隊と言う世界的にも非常に大きな戦力を現実に持っていることも事実です。しかし、9条1項とそれに続く2項があるがゆえに、自衛隊はあるけれども陸海空軍ではないと自衛“隊“だと。戦争、つまり外へ打って出る戦争、侵略戦争や国を守るというような活動以外はしないという限度では、9条2項があるために、どうやってもいくら理屈を考えても、それ以上の説明できる理屈は考え付かない、ということでぎりぎりそのラインで自衛隊が出来ることはここまで、というふうに何とかおさまっているわけですね。
で、一年間だけ特別に戦争状態でないところに小火器だけ持っていくという特別の法律を作り、イラクに行くのはOKですと。つまり、特別の時間で限った法律を作って、行くところも限って、持っていく武器も限って、やることも限っているから、9条2項には違反しないことができますと、非常に難しい理屈を作りあげて法律を通して、それでやっとイラクに行けているわけです。それが、9条2項が持っている、ある意味では大きな力なんです。
だけどさっきのフジモリさんではありませんが、自由にやりたい人にとってはすごく邪魔になるんだろうと思うんですよね。なぜかというと、そういう特別の手立てをしない限り、自由に動けないという縛りがはっきりあるわけです。だから最初に言ったように縛りを取りたいという人は、何の為にその縛りを取りたいのかということを冷静に私たちは考えなきゃならんということなのです。なぜ9条2項が邪魔なのか、いらないのかと言うのかを真剣に考えざるを得ないのです。

自衛軍の明記

そこで、今度は代わりに作るものは何かということをお話しします。「9条の2」を見て下さい。1項から4項まで、新しい条文が丸ごと入れ替わりでできます。タイトルもちゃんと「自衛軍」というふうに軍隊であるということをはっきりさせています。

あとは全部法律で決められる

1項では、内閣総理大臣が最高指揮権者。そこをはっきりさせます。そのあとですが、2項にも3項にも4項にも同じ言葉が入っています。「法律の定めるところにより」・・・、何々、何々、何々となっています。
法学部の授業だとすぐわかるわけですが、憲法を変えるのは非常に難しいです。後で言いますけど、国会議員の3分の2の賛成も要るし、私たちの国民投票も要りますよね。でも法律を作るのはどうでしょうか。あんなに反対しても大変だと言っても、障害者自立支援法はぱっと通っちゃいますよね。自己負担率がどんどん上がる、例えば介助の支援の法律もぽっと通っちゃいますよね。法律ってすごく簡単に今の国会の中では通ってしまうわけです。国会の中で過半数さえあればいいから、今の国会の中で言うと民主党にさえも気にすることはなくて、法律は作れる状況にありますよね。で、この資料を見ると、法律の定めるところで自衛隊はどういうふうな制約を受けるのか、どういう時にどんな活動ができるのか、どんな装備やどんな組織になるのかもすべて法律で決めてもいいよというふうに憲法で書いてあるわけです。ということは、私たちは憲法を選ぶという場面にぎりぎりもし立たされるとしても、本当の意味で選んだことになるかどうかということなんです。

白紙委任の憲法

ある人が説明します。国連の決議があって国連がどうしても日本の人に応援してほしいと言った時だけ自衛軍が出ることになるんですよといくら説明をされても、法律でそうでない場合にもどんどん出て行きますよと書いてしまえば実はできてしまう、そういう仕組みの憲法なんです、この憲法は。だから私たちがいろいろな制約がある自衛隊として活動して欲しいと思って賛成をしたとしても、そうなる保証は実は残念ながら何にもないんです。まる投げなんです。白紙委任なんですね。
だからどうにでもできてしまうので、多くの学者の人が心配しているのは、国連で本当に例えば戦前のファシズムのようなひどい国があるから国連軍としても武力がいるというような場合にしか自衛隊は出ないのかと聞かれても、そうではないとしか言いようがない条文になっているわけです。

事後承認にも出来る落とし穴

2項では、国会の承認その他の統制に属する。国会で自衛隊がどこに行っていいかどうかを議論した時に、反対だと事前に決議されれば出ていけないわけですが、後でもいい、事後の承認手続きでもいいということになれば、まず行こうということも法律で決めれば出来るわけです。緊急で議論する余地がないときには後の承認でも構わないみたいな法律を作れば出来てしまう、というふうに「9条の2」というのは、穴だらけの憲法であって、憲法で基本の国の仕組みやあり方を決めるといっても、実はちっとも決めたことにならないという中身になっています。

軍事裁判所では一般人も裁かれる?

9条の最大の問題は今まで話したことにあると思いますが、自衛隊が「自衛軍」になると、76条という裁判所の仕組みを書いた条文ですが、今までにない仕組みがどうしても必要になります。76条の3項です。軍事裁判所を設置するという、新しい裁判所を作る必要が出てきます。つまり自衛隊の人は自衛隊法に基づく国家公務員ですけれども、自衛軍になると軍隊ですから、軍隊での命令系統の違反の問題は国家公務員法というだけでは足らない問題が起きてきます。でも自衛軍の人だけが軍事裁判所にかかるのではなくて、自衛軍のさまざまな支障の問題は、わたしたち一般市民も当然そこに関わってきますから、軍事裁判所での裁判を受ける立場になってしまう。というように、一つが変わると、裁判の仕組みの中にも軍隊という構造がどうしても入ってきます。さっき言った9条だけが変わればいいという問題ではないという一つの現われです。休憩に入ります。

(休憩)

人権規定

 お手元のレジメの3枚目、人権規定に入ります。レジメに、「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」に変わる、と書いています。資料の12条と13条を一緒に見て下さい。
私たちの憲法は、権利はあるけれども、不断の努力でその権利が害されないように私たちに努力をしなさいと、天から降ってくるものでも地から湧いてくるものでもない、私たちが無関心ではなく自覚をしてそれを実現をする努力をしないと、権利というものは本当に中身のあるものにはなりませんよ、と12条に書いてあるわけです。
それと同じような雰囲気の条文が、草案の12条にもあります。果たして同じ内容で、少し言い換えただけなのかどうかが気になるところです。 一つは、12条の表題が、『国民の権利とその不断の努力で保持しなさい』というタイトルになっていなくて、『国民の責務』となっている。つまり、私たちの権利を本当に中身あるものにする、という書き方ではなくて、私たちの責任、というタイトルでこの条文は始まります。つまり、権利を濫用してはいけませんとか、権利はいろいろ制約されたり責任がむしろありますよ、という雰囲気が強い条文になるわけですね。
もう一つ大事なことは、「公益及び公の秩序に反しないように自由と権利がある」という書き方になっています。「公共の福祉」が今の憲法の言葉ですが、これとはだいぶん雰囲気が違う言葉です。「濫用の禁止」と言うのと「責務」を言うのとでは、権利の根本的な捉え方が違ってきますし、「公益」と「公の秩序」というものが私たちの権利を考える上で常にかぶさってくる、「責務」や「責任」が天井のようなものとして存在するという言い方になるわけですね。 そこで、手元の後ろの資料見て下さい。表に出て来たものを見ただけでは本音が分からないために、もともとどんなことを考えていたのかについて、草案の元になった素案を見て、それがどんな言葉になっているのか繋げてみないと、表にみえる言葉だけでは本当の思いというか狙いというか企みが見えないのです。 その素案では、今の憲法にある「公共の福祉」が曖昧でこれでは困る、という言い方をしています。これに代える言葉として、「国家の安全と社会秩序を維持する概念」を入れないとだめだとなっています。この言葉を置き換えると「公益及び公共の秩序」になるわけです。つまり、「国家の安全と社会秩序」が、私たちの基本的人権の上にこれを制約する原理として乗っかってくる。そういうふうにこの条文が根本から変わってくるわけです。
憲法は、国が個人個人を根本的に大切にして、個人個人の権利を害さないようにしなさいと決めるものだったのが、憲法でみんなが国家の安全と国の秩序のために権利を行使しなさい、その範囲なら認めますよというものに変わる、この12条と13条を合わせて読むとそう変わってくるわけです。
最初に弁護士会が非常に珍しい決議をしたと紹介したのは、このような憲法の決め方は憲法ではないじゃないかという法律家の基本的な受け止め方があるからなんです。代表民主制で私たちの代表のように見えるけれど、権力を持った装置が私たちの権利を害することが生まれるかもしれない、だから憲法で縛ろう、それが憲法の本質的な役目だというのが、少なくとも弁護士全部はそういう歴史的な理解のもとで憲法を捉え、それに基づく法律のもとで仕事をしているわけです。しかし、こうやって縛る相手が逆に自分達を縛るものに憲法は変わるのか、それはいくらなんでも法律家としてぎりぎりところで認められないというのが、さっきお話した弁護士会の決議には繋がっていったわけですね。
国に酷いことをしてはいけませんというのと違って、みんなでこれを守りましょう、という中身に変わってくると、じゃあ誰がどうやって国の暴走を縛るのかということが全然出て来ないものになっていまいます。その意味で、憲法が根っこから変わる、憲法が憲法でなくなる、立憲主義が立憲主義でなくなるという恐れ、心配がそこにあるわけです。
最近は社会秩序を守るというと、一般には、みんなの感じている治安に対する不安感とか体感不安というか、こういう状況の中では非常に受け入れられやすい雰囲気があります。
少し脱線しますが、大学で従来から教えている刑法の先生が嘆いていました。何を嘆いているかというと、学生たちは、ある事例を検討してこれは何罪にあたるかあたらないかという試験について、以前なら半分ぐらいはいろんな問題はあるけれど刑罰にまでの対象にするには当たらないという結論が出していた。全員が同じ結論になるような問題だったら試験にならないので、あやしい問題を出すから当然結論が分かれるわけです、半々ぐらいで。国家が人を裁いて罪にするというためには、厳密にきちんと判断するという方法でやると半々ぐらいに分かれるわけですよね。ところが、最近は圧倒的にみんな有罪にしてしまう。つまり、悪い奴だ、こんな奴は常に悪、という発想が非常に強い。刑法の世界に、最近は「敵味方刑法」という言葉があるんです。敵と味方の刑法、つまり、敵はあくまで敵なので、徹底的に処罰をするというか容赦しない存在を認めるというか、非常にきびしい発想なんです。
例えば、“越後屋お前も悪よのう”というと、もう問答無用でばっさばっさ切ってもちっとも良心の抵抗はないような気分になるじゃないですか。徹底的な悪役というのは常にそうですよね。だから、騎兵隊という軍隊の登場する西部劇では、ネイティブ・インディアンが人間の形はしてるけど人間ではない悪の存在みたいな役をやらされ、それが許されなくなると次は別のものになっていくわけですね。SF小説の中で有名な『宇宙の戦士』とい1960年代にアメリカのハインラインという作家の作品があるですが、地球軍が外の星に出て行くと、とんでもない人間以外の異星物の圧倒的な邪悪な存在がいてそれを徹底的に戦闘していってやっつけて、一人前の戦士になるというストーリーなんです。それは完全にベトナム戦争そのものをイメージした小説なんですね。つまり、ベトナムに行ったアメリカ兵が銃の相手にするのは、家族を持ち生きている人間でない存在だと考えないととても銃が向けられない。だから、こういう小説が出てくる訳です。どんどん許さない存在が出て来ると力づくでもなんとかしよう、そうやって解決したほうがいいんじゃないかいう雰囲気も出てきてます。
  また、最近の竹島問題についてもさまざまな考え方はありますが、テレビでは韓国が日本に対して反対をしている映像、この野郎みたいな雰囲気の映像ばかりが出て来ますよね。私の事務所は韓国領事館の近くにりますが、あの日には黒塗りの街宣車がずらっと並び、ものすごい音量で警備している日本の警察官に「お前は非国民かあ」と怒鳴りながらやっているけれどそういう映像は出ませんよね。つまり、煽ろうと思えば、映像によってどんどん煽られてしまい、どうやってこの問題をお互いが理解しあいながら冷静に解決すべきかということが吹っ飛んでしまえ、「国家の安全と社会秩序」を維持するために私たちは何をすればいいかという気分に流れていくわけです。

国益とは国家の利益?

新憲法草案は、「公益と公の秩序」を優先的な価値として人権の上に置くと宣言をするわけですが、その一点で今の憲法とは全く違ったものになると実感しています。
ある与党の政治家が「国益が大事だ」という言った時がありました。「国益とはなんですか」という質問に、「それは国民の利益です。」と言っていたのに、何年か経つと「それは国家の利益です。」と言い出している。「国益」、「公益」が私たちの生活とは違ったレベルで考えられ、それが優先的な価値としてみるべきだという仕組みの基で、権利の中身が変わっていくのではないかと非常に心配しています。
これが先程のいわば“銃後の守り”であり、国が決めた政策に対してどのような言論や活動が許されるのか否かという基準が作られ、それを憲法が許すという世界が生まれるのではないかという心配をしています。
 さらに草案では、政教分離、信教の自由や営業の自由が広く認め、「自由で公正で活力ある世界」を生むために、いろんなつながりのある条文が出てきます。これは、ひとつひとつの条文が長い苦闘の歴史のなかでできてきたこと、それ1つを議論して学ぶだけでいろんなことが見えてくるので、別にまた是非学習の機会を持って頂きたいと思います。

新しい人権が導入されたか

もうひとつ、新しい人権が導入されたかにちょっと触れておきたいと思います。
資料の19条の2。これまで、今の憲法では、プライバシー権を認めてないとか環境権がないとか、そういう意味で時代遅れだから変えたらいいねという言い方がありました。では、ちゃんとその宣伝どおりの条文が入ったのかということですが、19条の2に「個人情報の保護」、なるほどプライバシー権が認められているかのような規定があります。プライバシーについては、今は個人情報保護法という具体的な法律ができて、それに基づいて動いているので、草案の規定がどこまで機能するのかについて議論されています。つまり、自分の情報について勝手に侵されないというのがプライバシーの権利の一面ですが、国が私たちの思想や考え方を侵害する行為は許さない規定として本当に機能するのかということが今議論をされています。
例えばアメリカの愛国者法のなかで、図書館で借りた本のリストを手に入れることが許されるか否かで大きなせめぎあいになってますが、そういうことが本来のプライバシー権として議論されることです。果たして草案の規定はそこにきちんと見合うだろうかということが問題視されています。

環境権

また、25条の2で、「国は環境を守ろう」と言っていますけれども、残念ながら「努められなければならない」という努力目標の形になっています。本当に地球温暖化も含めて環境を守る、私たちに環境権を認める趣旨であれば、私たちの生活を壊すことはやめなさいという権利、差止めをする、ストップをかけるという権利として明確に規定すれば本当はピッタリ合うのですが、残念ながらそのような規定の仕方にはなっていません。

地方自治

最後にもう一つ大事な問題は、地方自治の問題です。今回の草案の91条からですが、なぜかたくさん地方自治の新しい条文ができています。自民党も地方自治の活性化に熱心になったのかと言う人もいます。果たしてそうだろうかと言う人もいます。この条文はとっても分かりにくく、私も地方自治に詳しい人の意見を資料等見ながら勉強している最中なんです。
自治体は、負担が出来る人が一定の負担をする、いろんなハンディがあって負担が出来ない人はそれぞれの応能、所得の大きさに応じて負担をするのとは違って、利用者はすべからく、所得があろうとなかろうと薄く広く必ず負担をするとしています。これまでの、富める人からの一種の所得再配分をやっていくのとは全く違った発想をこの中に盛り込んでいます。

住民サービス

もう一つは、国は「小さな政府」として、社会保障や教育は基本的には狭めていって、その部分を地方自治体でやってほしい、自治体としてやれなくて、民間がやるというなら民間でやってもらいなさい、それぞれが負担しあいなさいという。軍事的な面と外交的な面は国の責任と支出は一定のところは確保するが、社会保障などは自前で全部やりなさい。破綻する自治体が出てもそれはそれまでという状況が生まれるのではないか、そんな仕組みに変わろうとしているという指摘があります。
今さまざまな住民サービスが非常にどんどん切り下げられてきている状況を眺めてみると、おそらくその行き着く先は草案で書いてある中身とそう変わらないのではないか。採算が取れないところはもうやめてもいいよ、「健全な財政状況でやりなさい」という言葉に表れているのではないかという指摘もありますか。つまり、自治体が活性化してみんなの生活が豊かになればいいという発想ばかりで作られているとは言えないのではないか、もっと批判的にみていく必要があると思っています。

憲法改正は簡単にする96条

最後に96条です。今の憲法を変えるためには、3分の2の総議員、衆議院も参議院も賛成をして、この改正案が出て来ない限り国民投票ということにはならないわけです。しかし、今回、この案で改正されてしまうと、次は過半数の賛成で改正案が自由に出せるようになります。つまり、今の法律と変えるのとあまり変わらないような提案の仕方が自由に出来るようになります。
抵抗や反対が多いところは今回やめにしても、時間をかけて次に変えようと思えば変えやすくなる可能性を秘めています。そのことは素案の中にも書いてあります。改正案の中身に対して問題があると言って押し返すと、今度は当たり障りのないところでどうでしょうか変えてくる可能性があります。だけれども、この96条の改正ができてしまうと次の改正はもっと簡単に提案され、投票にかけられることになります。

終わりに

憲法改正の国民投票法案については、日弁連が出したパンフレットを置いていきますので、廿日市のみなさんで是非学習会に使って下さい。
こういう学習会を重ねながら、ぜひ県内の9条を考える皆さんが、今年の秋に11・3にはグリーンアリーナに集い、7000人か1万人かで一杯になると、私たちは少数派ではないというか、心配している人たちがこんなに沢山いるんだなということでもっと元気が出るかもしれません。是非そこへの参加もお願いして私の話は終わります。どうもありがとうございました。

資料:自由民主党憲法草案対照表 (小見出しの文責は「九条の会・はつかいち」)



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